人工知能と人間の違いは「めんどくさい感情」だけになるのか
本は時に未来を予測しています。
最近何かと話題の「人工知能」。
雑誌の東洋経済の「脳」特集でも、人工知能は取り上げられていました。
記事の内容としては、人工知能の今後の展望について。
いずれ、人間ができることのすべてが人工知能はできるようになるといいます。
アイデアや芸術作品を生み出すことでさえ、人間の活動がすべて脳の信号の働きである以上、人工知能でできるようになるそうです。
いずれは、ピカソの「ゲルニカ」よりも、ヘミングウェイの「老人と海」よりも素晴らしい芸術作品を生み出す人工知能が登場するかもしれません。
創造性も人工知能で可能となったら、人間にしかできないこと、人間固有のものとは何か。
東洋経済の記事では、ウジウジしたり、イライラしたり、カッとなったりする感情の起伏だけが人間らしさになると書いてありました。
人工知能にはめんどくさいからそのような機能はつけないだろうと。だから感情の起伏は、人間固有のものになるんだと。
「人間とは何か」を問うSF小説の予言は実現するか
この記事を読んでいて思い出したのが、フィリップ.K.ディック作の小説「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」。
映画「ブレードランナー」の原作としても有名なSFの名作です。
小説は、第3次世界大戦後、放射能の灰に汚された地球が舞台。地球で暮らす人々は、生きている動物を飼うことが地位の象徴になってます。
主人公のリック・デッカードは、逃亡したアンドロイドを捕まえる「ブレードランナー」の仕事をしています。
リックは、人工の電気羊しか持っておらず、本物の動物を手に入れるため、火星から逃亡してきたアンドロイド8人の首にかけられた懸賞金を狙って狩りに出ます。
アンドロイドと人間の生きるための戦いが始まるのでした。。。というストーリーです。
ストーリーだけざっと読むと、SFアクションっぽいですが、問われているテーマは「人間とは何か」です。
小説では、人間とアンドロイドの違いは「共感力」という設定です。「共感力」を測定する機会も登場します。
クモや動物を平気で殺せるアンドロイドと、命あるものに共感し感情移入出来る人間。
しかし、小説の中で知的発達障害者や精神病者は、共感力がない、感情移入ができないというだけで、人間としての権利を剥奪されています。
それでは、そのような人々は人間ではないのか。アンドロイドは機械であると割り切っていいのか。ディックは小説の中から問いかけていました。
そして、現在その問いかけが現実のものとなろうとしています。
SF小説、ターミネーターよろしくな感じで、人工知能の開発が今後ますます進んでいくでしょう。
そこで、ディックが1968年に問いかけた「人間とは何か」という問いが再び必要となってくるのかもしれません。
この小説を書き上げた当初、ディックはおそらくアンドロイドを人種差別を受けている人々の比喩として描いた気もします。
自分達とは違う人を迫害していいのか、当時の社会に問いかけていたのでしょう
しかし、現代社会においては、比喩ではなくリアルに人工知能というアンドロイドが登場し、「人間とは何か」の問いかけが必要となってきます。
うつ病治療に「情動オルガン」が登場する日も近い
また、東洋経済の記事には、うつ病の治療のために脳の信号の研究がされていると書いてありました。
いずれは、健康な人の脳の信号に合わせて、うつ病の人の脳の信号が変えられる装置ができて、それがうつ病の治療に使われるかもしれません。
その時にまた思い出したのが、「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」です。
小説の中に、人間の気分を変えられる「情調オルガン」という機械が登場します。これは、ダイヤルを変えるだけで、「抑うつ気分」「楽しい気分」「仕事に行く気分」と気分を変えられます。
これこそまさにうつ病の治療に求められている機械なのかもしれません。
しかし、これが現実となったら、私たちはもはや感情さえも支配されてしまいます。脳の使い方が誰でも一緒になってしまうのです。
それって言いようのない恐怖を感じることではないでしょうか。
科学の進歩によって、私たちの暮らしが豊かになることはとても幸せです。
しかし、過去の偉大な作家達が警鐘を鳴らした未来を、もう一度読み直してみる必要もあるかもしれません。